宗教は必要ですか?

人間はほぼ白紙の状態でこの世に生まれて来るのだろう・・・・。

ほぼ、ということは全てではないことを意味しているが、それは遺伝子が引き起こす気質とかホルモンの影響を受けていて、必ずしもすべて後天的な学習によって人格が築かれるとは言えないためです・・・。

今日はなぜこのような困難な話題について書いてみようと思ったのか?と言うと、韓国での新型コロナウイルスの感染爆発が宗教団体の集会から始まったということに関連した情報で、現在韓国には「我こそがイエスの生まれ変わりである」といった教祖を名乗る宗教家が40名ほど居ると知ったからである。

そうしたキリスト教系の新興宗教が韓国で乱立している現状と、信者の多くが若者であるという事実は私には大きな驚きであったが、そうした状況を俯瞰的に見れば、新興宗教を興す者たちには、迷い、或いは悩み、恐れる人間の心の弱みに付け込んだ上に、金銭を貢がせたり、崇め、奉られたりする心地よさといった、少なく無い報酬を得られるという理由があることを示しているはずだから、韓国だけの問題では無いと、日本ではどれくらいの新興宗教を含む宗教法人が存在するのかと調べてみると、何と日本では17万もの宗教団体が存在するとWeb情報で解ったのです。

この17万という宗教法人の数の信憑性はどれほどか?と考えれば、確証はないが、控えめに見てもたいそう多い数であることは間違いのないと感じてはいる。

私はそうした宗教団体の乱立する時代に育ったにもかかわらず完全な無神論者であるが、どのようにして無神論者となり、脱宗教を謳うのか?この自分を例に取って書いてみようと思う。

私は無神論者として当然かもしれないが宗教の神秘性などを全く否定しているわけで、何故宗教的思想によらずに人格を形成することになったかと言うと、先ず両親の双方が特定の宗教に染まっていなかったことが挙げられ、親は私に宗教的な教育を一切しなかったことで、精神的な論理基盤は、簡単な躾以外ほぼ生まれてきたままの白紙の状態で年齢を重ねるという少年時代を過ごして来たのです。

私のそうした無垢の時代は10歳の頃、宇宙の果てしない大きさを知ることで突然のように自我に目覚め、全てのことに対し何故なのかという疑問が沸き上がって、それを解明したいと願う少年になって行ったのです。

そうした心の成長の時代を経て、どのような精神的基盤を持つことになるかは、人がどんな国に生まれたかによっても大きく異なり、それは紛れもなく親がどんな精神的基盤を持って子供の教育を考えているかに依るのであり、地球の中における親の育った地域性が個人の思考論理の構築と精神基盤の確立に非常に深く関わって来るのです。

私がイスラム教を信じる人の多く居る地域で生まれていれば、恐らくイスラムの教えを親や周囲から自然に受け取って、その世界でうまく集団に溶け込めるように育つのは当然のことだろうと想像できるし、それがキリスト教を信じる人達の中で育てばやはりその社会に適応していたと思える。

敗戦によってそれまでの神道と仏教、朱子学などを中心とした精神社会であった日本の道徳的な教育指針は少なからず揺らいだと思われるが、もともと多神教的な日本人の信仰は大らかで抑圧的でなかったこともあったし、何よりも日本人が大切にして来た、お天道様に対して恥無い生き方とは、嘘をつかない正直者であることを美徳としていたためか、GHQの推し進めた戦後の新しい教育方針は、特別馴染みのない異教徒の教えであったという感覚も殆どなかったはずなのだ。

しかし敗戦後の新憲法に謡われた信教の自由は、宗教団体と認められる場合、その団体の宗教活動収入を非課税としたことは、そこを突いた新興宗教が生まれやすい素地となり、その法律を悪用していると思えるような多くの新興宗教団体が生まれたのです。

もともと強く特定の宗教信仰を促すような社会では無かった日本では、日本の勝利を信じても祈ってもそれはほとんどの場合大きく裏切られて来たこともあっただろうから、戦後さらに日本人の神頼み的な信仰心は緩み、私の親のようにほぼ無宗教で、葬式と結婚式には宗教に倣った儀式こそ行うが、それが信仰とは程遠いものであるのは、日本の標準的な家庭の様子であっただろう。

このようにして私は幸運にも宗教に全く染まらず、しかも怪しい新興宗教にもつかまらずに主に欧州の思想家の書いた書物を読み漁ることで、そこから大きな啓示を受けて自分の存在とあるべき論理基盤を構築して行ったのでした。

思えば無垢であった少年がプラトンからサルトルに至る2400年に及ぶ西洋哲学を独学で辿ることになったという事は、あまりありふれた事では無かったかもしれません。

奇しくも西洋哲学はキリスト教を否定しよう試みる歴史でもあり、西洋の思想家がキリストの呪縛から己を解き放ち、精神的に完全な自由を得ることに精力を傾けたものでもあったので、どの宗教とは問わず宗教観を持ち込まない思想で自分とその世界を定義することに成功したと思っています・・・。

ただ、17歳の私がそこで得た教示は、その後の自分を常に更新して行く必要性であり、サルトルの言う実存主義も一つの捉え方と理解すべきものであるし、常に自分の最も信頼する思想を疑い、自分自身の「膠着しそうになる意識を刺激し、常に新たな情報によってリフレッシュし続けよ」ということです。

簡単に言えば、死があるから宗教があると言えて、宗教とは人間が死ぬことや物事を解釈するうえで、解らなかった様々な地上での事象やその理由を、ある想像と方便によって答えを出し、乱れがちな人の心を安心させるために生まれた大昔の人の考えた知恵と言えると思う。

しかし科学技術の発展と共に、世界というこの宇宙のことも、人間が遺伝子によって親から子へと命だけでなく様々な特徴も伝える一つの生物に過ぎないことも解った訳で、やがて必ず死ぬ時が来るという事実を率直に受け止め、方便とか解釈というレベルを超えて、人の生死という真実を知る時代に則した精神基盤の構築法の必要性が生じているのではないでしょうか?


時々我が家を訪れる宗教的活動家もいますが、時間があれば「己の最も信じることを最も疑うべし」と説いています。「汝に不足したるものは、それを否定しようとする声に耳を傾ける努力である」とも諭しています。

そんな私は世界のあらゆる宗教信者に言ってあげたいことがあります。
それは「自分の意識の奥底に在るであろう膠着した教えをほじくり返して洗ってはどうですか?」と「絶対的に正しいことなんて無いのだと考え方を改めるべきではありませんか?」と・・・。

そして「正しいと思い込むことは危険なこと」だと気づいてください。

正しさとは相対的なもので、多くは自分に都合の良いものです。

自分は正しいと思うと、正しくないと思える人に対し攻撃しても構わないと思ってしまいがちですが、それこそが正しいことではないと言えます。

「正しさを盾に他者を従わせようとするべきではありません」その正しさはあなたにとっての正しさかも知れないからです。他者には他者にとって正しいと言えることがあるはずです。

人はそれぞれに幸せでありたいと願って日々をその実現のために生きています。

生きるものは必ず死ぬという必然さえ理解すればそれで疑問はなくなるものだ・・・。

この世は去りがたく、そして寂しいことに違いない、しかしこの世を去るという時は生物として生まれた者すべてにやって来る逃れることができない別れの日なのだ。「死するその日まであらゆる現実を受け入れ、死に行く己の寂しさをも受け入れる柔軟な自分であり続けよ」と無宗教な私は言おうと思います。

死への恐怖から逃れる方便など・・・ それが正しいと思い込んでそこに留まること…それが宗教を信じて疑わないことの最大の問題点だと思います。


宗教はROMを脳に埋め込むことに似ています。
多くの場合再フォーマットして生まれた時のように真っ白に戻せないし、バージョンアップさえ困難になります。

書き換え可能なRAMに取り換えるべきです。RAMはやり直しが可能です。本来人間の脳はRAMだったはずなのです・・・・・。

ROMな貴方…RAMに戻しませんか?

と今日は言っておこう・・・。

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