ハエを一匹殺した・・・・。

ハエを一匹殺した・・・・。

その瞬間、一つの生命体の命を奪ったという感覚が自分の意識の中に僅かな痛みをもたらした・・・。

そのハエは私に危害を加える可能性さえ無かったにもかかわらず、私は一瞬でハエを粉々に轢殺してしまったのだ・・・、そのことに自分の傲慢さ身勝手さを感じたというわけだ。

そうしたことに対し、心に痛みを感じるかどうかは人それぞれだろうが、実は生きている存在を情け容赦なく殺しまくるのは地球上に存在する生物にとってありふれた日常である筈だ。

古今東西、殺戮とまで言わなくとも生物がこの地球に登場してから今日まで、数限りない生物捕食が行われてきたことは紛れもない事実であるし、その結果として我々のような人類が登場したと言っても過言ではないだろう・・・。

特に目に見えないほどの大きさである菌類や微生物と言う範疇についてまで言及するなら、我々だけでなくあらゆる生物は自己保全と言うレベルで肉体への侵入者を免疫機能と言う名のもとに殺しまくっていることで、自分自身が地球上で存在し続けられるのだし、その仕組みは生物共通のものである。

だから、目に見える昆虫、蛛、ゴキブリ、ネズミなどを自分にとって害があると言う理由で、駆除すことも特に責められることでないのがこの世界の普通の事だろう。

では聞くが、命の尊厳とは何だ?

大きさか?有害かどうかか?誰にとって有害と言うのか?人間とって有害なら殺しても良いという事か?有益でも食料として人間は動植物を殺すが・・・それは、食料になる生物に尊厳は無いという事か?

虫けらには生物としての尊厳は無いと言うのか?、昆虫も微生物も、私と同じように明日も生き続けたいのではないのか?

私に小さな痛みをもたらした脳活動による自責の意識や倫理観とはいったい何だろう?

私の倫理観は他の生物の尊厳を踏みにじるなと囁くが、倫理観を作り上げている自分の脳や肉体はほぼ無条件に自己の生存の為に微生物や菌類を殺しまくるとともに食料として他生物の摂食を止められない・・・。
思索することや倫理観を持つという事は先ず何はともあれ自分が生きていることが大前提であるから、食という生物の生存システムを否定すれば意識の生じる余地さえなくなるのだ。

よく考えてみれば、倫理観と言うものは人と社会が作り上げた文化と言えて、教えられ植え付けられた人間社会の中での方便であることが解る。
言うなれば意識の中で機能するアプリケーションソフトウエアであると言える。
つまり、人間同士が奪い合い、殺し合う事を抑制するために生まれた思想なのだと・・・。

その方便である倫理観は人間社会の平穏を保つためにあったのだが、生きることに汲々とせずに済むようになった我々は、物言わぬ生物も生き続けたいはず、という事に気づき共に生きようと考えるようになったという事だ・・・。

目に見えない小さな生物や菌類、微生物は自分自身の生体維持の為にほぼ顧みること無く殺戮の限りを尽くす生体の仕組みをさておいて、目に見える生物には憐れみをかけて共存しようとする・・・。

何だろうこの人間と言う生き物の清々しいまでの身勝手さは。

その身勝手な生物の本性こそが我ら人間の真の姿であるという所から全ての教育が始められるべきと気づかねばならないのだ・・・・。

生物の本質を理解し認めたうえで、では、どのように自分が生きるべきかを考えなくてはならない。

今日、私はハエを一匹殺した・・・、私は神のごとき生き物ではないのだ、十数億年に亘って殺しまくることでここまで勝ち残り、生き延びてきた生命の末裔なのだ・・・。

幾億の屍の上に今の自分があることに気づかなければ自分が何を成すべきかに気づくことなど無いのかもしれないね・・・。

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