ベジタリアンに聞きたい・・・・。
以前から、私は、人間だけでなく殆どの地球生物は、他の生物に由来する物質を栄養素として取り入れるほか生存の術はなく、われわれ人間が生永らえると言う現実は、自分以外の動物や植物を殺すか損害を与えることでしか成立していないから、私の認識としては、他の生物に損害を与えて生きる人間はそのことを直視して、生物が生きようとすることは基本的に身勝手なものであると、受け入れなくてはならないと考えてきたし、それが罪であると言うなら、およそあらゆる生物は罪深い存在であるし、少なくとも血みどろの生存競争に打ち勝ってきた種の末裔であることを知らねばならないと主張してきた。
先ず、ベジタリアンである貴方に、「あなたは、極限まで己の意識の中にある身勝手さを超えて物の本質を正しく見ようとする覚悟がありますか?」と聞きたいのですが、如何でしょう。
覚悟があっての上で、植物のみを摂取するのであれば強者生存の法則に組み入れられることなく生存を許容されると考えているのでしょうか?
それとも本来、動物であれ植物であれ、生きている生物に損害を与えて自分が生きることは、他の生物に犠牲を強いていると理解はしているが、植物なら自分の呵責が少なくて済むという、自分の意識の問題でベジタリアンとしての生活を選んでいると言うのか?そこを教えていただきたいのだが如何だろうか?
具体的な質問も書いてみよう・・・。
植物は食べても良いが、動物は食べてはならないと言った主義主張はどこから来る意識でしょう?
ニンジン1本と魚一匹では何が違うと考えていますか?自ら動ける生物と自発的にはあまり動けない生物というだけの差ではありませんか?
もしかしたら、ベジタリアンの人は、牛は食べても良いが鯨は食べてはいけないという人と同じ仲間ですか?
ベジタリアンの人に聞きたいのです。「貴方は植物食の何が許せて、動物食の何が許せないのですか?」
ひょっとして、動物を食べないという生き方が、何らかの基準に照らして正しい生き方と思っていますか?だとしたらその基準や正しさの根拠は何でしょうか?
最近、アメリカの大学での研究(ミズーリ大学のヘイディ・アッペル教授)の記事を読んだのだが、キャベツなどの仲間のアブラナ科のシロイヌナズナは、昆虫に食べられるときには、どんな昆虫に食べられているかを察知して、その昆虫の嫌う化学物質を作って食害が少なくて済むように反応することが判ったと書いてありました。
またそのナズナの知覚は、たとえ自分が食べられていない時でも、害虫がナズナを食べるときに出す歯の動きに伴う振動波をオーディオで記録して、当に食べられてはいない時にその振動波をナズナに聞かせたところ、その対象となる昆虫の嫌いな化学物質を作ったことが分析の結果明らかになったと言うことです。
これらの研究は何を物語っているだろうか?
植物は、われわれ人間が今まで気づかなかっただけで、自分の体の一部でも失うことに抵抗し、より良い生存への活動を動物と全く同様に行っているということを雄弁に物語っていると解釈できます。
実は私にとっては、そのような研究があろうがあるまいが、この地球に生まれてここまで命をつないできた同胞として植物を捉えてきたのだが、自分が生存するために他の生物の遺骸や生産物を栄養素として自分の体に摂り入れることは、やむを得ない生物としての限界と理解し、自己の生命維持のために他の生物の命を奪うことになっている現実から目をそらさず、己の生存を優先している身勝手な自分を受け入れて、そういうことを都合の良い解釈で合理化せずに、犠牲を強いた生物に対し、常に謝罪し感謝しながら生きるという生き方をするしか精神を保つ道はないと主張してきた。
その対象は動物でも植物でも全く区別など出来ないという立場をとっているのです。
ですから、私は他の生きている生物の生存権を奪って、その恩恵によって自分が生き続けていると理解しているから、その非情な強者生存の現実を、あるがままに受け入れているのです。
少なくとも己の意識と言う領域に人間が到達するずっと以前の太古より、そこに生存し続けた私のはるかなる祖先の必死に生きた魂を受け継ぐ、野獣の末裔であることを受け入れているのです。
ベジタリアンの貴方へ問う・・・・。
貴方はその悠久の摂理をいったい如何捉えているのですか・・・・。
先ず、ベジタリアンである貴方に、「あなたは、極限まで己の意識の中にある身勝手さを超えて物の本質を正しく見ようとする覚悟がありますか?」と聞きたいのですが、如何でしょう。
覚悟があっての上で、植物のみを摂取するのであれば強者生存の法則に組み入れられることなく生存を許容されると考えているのでしょうか?
それとも本来、動物であれ植物であれ、生きている生物に損害を与えて自分が生きることは、他の生物に犠牲を強いていると理解はしているが、植物なら自分の呵責が少なくて済むという、自分の意識の問題でベジタリアンとしての生活を選んでいると言うのか?そこを教えていただきたいのだが如何だろうか?
具体的な質問も書いてみよう・・・。
植物は食べても良いが、動物は食べてはならないと言った主義主張はどこから来る意識でしょう?
ニンジン1本と魚一匹では何が違うと考えていますか?自ら動ける生物と自発的にはあまり動けない生物というだけの差ではありませんか?
もしかしたら、ベジタリアンの人は、牛は食べても良いが鯨は食べてはいけないという人と同じ仲間ですか?
ベジタリアンの人に聞きたいのです。「貴方は植物食の何が許せて、動物食の何が許せないのですか?」
ひょっとして、動物を食べないという生き方が、何らかの基準に照らして正しい生き方と思っていますか?だとしたらその基準や正しさの根拠は何でしょうか?
最近、アメリカの大学での研究(ミズーリ大学のヘイディ・アッペル教授)の記事を読んだのだが、キャベツなどの仲間のアブラナ科のシロイヌナズナは、昆虫に食べられるときには、どんな昆虫に食べられているかを察知して、その昆虫の嫌う化学物質を作って食害が少なくて済むように反応することが判ったと書いてありました。
またそのナズナの知覚は、たとえ自分が食べられていない時でも、害虫がナズナを食べるときに出す歯の動きに伴う振動波をオーディオで記録して、当に食べられてはいない時にその振動波をナズナに聞かせたところ、その対象となる昆虫の嫌いな化学物質を作ったことが分析の結果明らかになったと言うことです。
これらの研究は何を物語っているだろうか?
植物は、われわれ人間が今まで気づかなかっただけで、自分の体の一部でも失うことに抵抗し、より良い生存への活動を動物と全く同様に行っているということを雄弁に物語っていると解釈できます。
実は私にとっては、そのような研究があろうがあるまいが、この地球に生まれてここまで命をつないできた同胞として植物を捉えてきたのだが、自分が生存するために他の生物の遺骸や生産物を栄養素として自分の体に摂り入れることは、やむを得ない生物としての限界と理解し、自己の生命維持のために他の生物の命を奪うことになっている現実から目をそらさず、己の生存を優先している身勝手な自分を受け入れて、そういうことを都合の良い解釈で合理化せずに、犠牲を強いた生物に対し、常に謝罪し感謝しながら生きるという生き方をするしか精神を保つ道はないと主張してきた。
その対象は動物でも植物でも全く区別など出来ないという立場をとっているのです。
ですから、私は他の生きている生物の生存権を奪って、その恩恵によって自分が生き続けていると理解しているから、その非情な強者生存の現実を、あるがままに受け入れているのです。
少なくとも己の意識と言う領域に人間が到達するずっと以前の太古より、そこに生存し続けた私のはるかなる祖先の必死に生きた魂を受け継ぐ、野獣の末裔であることを受け入れているのです。
ベジタリアンの貴方へ問う・・・・。
貴方はその悠久の摂理をいったい如何捉えているのですか・・・・。
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