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zoom RSS 日本人はいつ日本人になったのか・・・?

<<   作成日時 : 2017/04/11 22:15   >>

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日本人の心はどのようにして作られたか

日本人は先の大戦の敗北により天皇が現人神でないことを知らされ、西洋的な思想に依る自由主義の良い所を知ることになった。

それまでの日本人の精神文化を支えていたものは敗戦とともに崩れて失われるかに思えたが、そうはならなかったのです。

親たちが我が子を諭す時にあるべき確固たる信念が揺らいでいただろうことは想像出来るが、新憲法施行下のもとに生まれた我々は、戦前の教育を受けた多くの教師や人々の中で育ち、善悪の規範となるような教えの多くは戦前のそれと大きく変化したわけではなかったのです。

その我々の世代が成人し、育んだ子供たちが今壮年期を迎え、「日本人の心」を代表するような平均値を持つことになって、このインターネットのある時代の情報空間に於いては彼らが今、日本人の評価を作っているのかもしれない。

もちろん、世界中の外国人が日本を訪れて様々な世代の日本人と接することになるから、我々団塊の世代の人間も日本人の評価を作り上げる様々な要因に参加している。

日本人は殆ど、「嘘は泥棒の始まり」というように嘘を嫌い、嘘吐きを蔑視するから、実際に嘘をついたことが無い人は殆どいないはずだが、嘘を言う事を恥じていて、自分の立場を悪くすることが判っていても敢えて噓を以って自己保身に走らず、真実を受け入れるのがまともな人間の条件と言えるので、全ての人とは言い難いが、概ね信用に値するレベルにあると言えるだろうし、何よりも他者を尊重し迷惑をかけないことに大きな注意を払って日々を過ごしている。

そしてそのような日本人の国民性の起源を考えると千年以上遡った平安時代の日本の社会に求めることが出来るのではないかと仮説を立ててみました。

平安時代とそれ以降の日本人は枕草子や源氏物語や多くの和歌に親しみ、朱子学を主体に学んだ武士階級以外の人々の間では、それらの平安文学や鎌倉文学から二次的に生まれる文化を謳歌していたことが知られていますが、文武を尊ぶ武士も武術よりも学問が優先されたほどであり、庶民の間では永く学校の役割を果たした寺での教え、江戸期の寺子屋などによって維持されてきた教育の成果もあって、読み書きが出来る人の割合は非常に高く、三百年間に亘る江戸時代の庶民の教養が非常に高いことが基礎になって今に至っていると思われるのです。

もちろん、枕草子以前の土佐日記や平安中期の更級日記、鎌倉時代の徒然草や方丈記なども江戸時代の庶民は貸本を借りて読むことで親しんでいたと言われ、当時の人々の娯楽として平安時代や鎌倉時代の古典は庶民の傍らに在り続けたのです。

そのように定番とも云える古典が多くの庶民に読まれたことが日本人全体の情操を育む上で大きな影響を残してきたと想像されるのだが、一例として、枕草子の中に書れている「すさまじきもの」などにみられる美意識や世界観は日本人の立ち振る舞いや常識的行動に対して大きな影響力を持ったのではないかと思われます。

つまり、何が良い事か、何が美しい事か、何が称賛に価することか、どんな風に人と接することが望ましいか、などを多くの日本人が同じ書物から学ぶ、という意識もなしに、楽しんで読むことで身に着けることが出来た為、親からの言葉での伝承によるような曖昧さの無い、一般性をもって共感し、基本的了解事項を自然と共有することになったのではないかと考えられるのです。

多くの庶民が文学作品を読むという娯楽を通じて得た、ごく自然な意識や感覚が代々受け継がれ、今の日本人の常識と他人を敬う心配りや誠実さを生んだと言えるのではないかと私は想像したのです。

現代日本人の高い社会性や秩序は島国であることと単一民族だからと言う人がいるが、それだけでは何も起きはしないでしょう。

日本人は大陸に進んだ文明や政治、仏教などがあることを知って髄と唐に多くの使者を送って学ばせ、文字も輸入し日本国の文明化に努めたのです。

やがてそれは実を結び、日本人は漢字を基にして平仮名とカタカナという表音文字を発明し、長編小説文学発祥の国となるまでに至りました。

学ぶことの重要性を理解した人々は進んで読み書きを習い、仮名を得たことで文字を読めるようになった多くの庶民は同じ文学作品を楽しんだことで、あたかも国定教科書で学んだような均質な知識と素養を持つことになったと考えられ、人々の間に共通の意識と了解が生まれて来たと想像することが出来るのです。

その共有される意識とは、美しいことは何であるか、忌むべきことは何なのか、何が人を楽しませ、何が人を悲しませるのか等に及ぶと思われ、人を慮る気持ちはそうした共通の思いと了解の中から自然発生的に生まれ、人を思い遣るという情緒的な国民文化は神を必要とせずに成立することになったと考えられるのです。

キリスト教も正しい人の生き方を教えてはいますが、それは、「神」という絶対からの抗することが許されない命令にも等しいものでは無いでしょうか。

そもそもイエス・キリストが絶対的な正しさを示す神であることから生じる呪縛があり、そこから抜け出すことがヨーロッパ人の哲学にはに不可欠だったように「神が居なければすべてが許される」という破壊的とも言える帰結に繋がってはいないでしょうか。

科学の進歩により「創造者によって造られた世界」という観念が否定される近代にあっても、多くの欧米人達がキリスト教を肯定し、今なお必要とするのは、彼らがそれ以外に規範となり得るような文化を持ち得なかったからではないかと思えて来ます。

神の存在を否定してしまえば何を以って人心を律することが出来るのか、という問題に直面し、彼ら欧米人には聖書に代わって広く受け入れられる規範が殆ど無い事に気が付くのだろう。

しかし日本人には神も仏も啓蒙思想も必要不可欠では無かったのです。

古の時代から先達が残してくれた数々の優れた文学作品によって日本人の情操は豊かに育まれ、そして美しい生き様としての他者への思いやりと気配りの文化は時代を超え、敗戦のカタストロフィーも超え今日まで揺らぐことなく受け継がれて来たと言えるのではないでしょうか。

これは唯一無二の例ではないかと思えるし、このことこそが今の日本人の心を作ったと言って誤りではないと考えました。

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